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    2017.03.19 Sunday/ -/ / -/ -/ -/ -/ by スポンサードリンク

ケルトを巡る旅

かつてケルト文化は、ヨーロッパからアジアにいたる広大な領域に広がっていた。しかしキリスト教の拡大に伴いそのほとんどが消え去ってしまった。ただオーストリア、スイス、アイルランドなど一部の地域にはその遺跡などがわずかに残っている。とくにアイルランドはケルト文化が他地域に比べて色濃く残る。ローマ帝国の拡大とともにイングランドまではキリスト教が届いたものの、アイルランドに到達したのは遅れたからだ。

この本は河合隼雄が、そのアイルランドにケルト文化の遺産を探して歩いた旅の報告がベースになっている。なぜ今、日本人にとってケルト文化なのか。それはケルト文化が、私たちの深層に横たわる縄文的心性と深く響き合うものがあるからだ。

私たちは、知らず知らずのうちにキリスト教が生み出した、西洋近代の文化を規範にして思考しているが、他面ではそういう規範や思考法では割り切れない日本的なものを基盤にして思考し、生活を営んでいる。一方、ヨーロッパの人々も、日本人よりははるかに自覚しにくいかもしれないが、その深層にケルト的なものをもっているはずだ。

ケルトでは、渦巻き状の文様がよく用いられるが、これはアナザーワールドへの入り口を意味する。そして渦巻きが、古代において大いなる母の子宮の象徴であったことは、ほぼ世界に共通する事実なのだ。それは、生み出すことと飲み込むことという母性の二面性をも表す。また生まれ死に、さらに生まれ死ぬという輪廻の渦でもある。アイルランドに母性を象徴する渦巻き文様が多く見られることは、ケルト文化が母性原理に裏打ちされていたことと無縁ではない。父性原理の宗教であるキリスト教が拡大する以前のヨーロッパには、母性原理の森の文明が広範囲に息づいていたのだ。

日本の縄文土偶の女神には、渦が描かれていることが多い。土偶そのものの存在が、縄文文化が母性原理に根ざしていたことを示唆する。アイルランドに残る昔話は、西洋の昔話は違うパターンのものが多く、むしろ日本の昔話との共通性が多いのに驚く。浦島太郎に類似するオシンの昔話などがそれだ。日本人は、縄文的な心性を色濃く残したまま、近代国家にいちはやく仲間入りした。それはかなり不思議なことでもあり、また重要な意味をもつかも知れない。ケルト文化と日本の古代文化を比較することは、多くの新しい発見をもたらすだろう。

いま、ヨーロッパの人々が、キリスト教を基盤とした近代文明の行きづまりを感じ、ケルト文化の中に自分たちがそのほとんどを失ってしまった、古い根っこを見出そうとしている。これは河合が言っていることではないが、日本のマンガ・アニメがこれだけ人気になるひとつの背景には、彼らがほとんど忘れかけてしまったキリスト教以前の森の文化を、どこかで思い出させる要素が隠されているからかも知れない。

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日韓いがみあいの精神分析

◆岸田秀の面白さ
岸田秀と金両基の対談『日韓いがみあいの精神分析』(中央公論社、1998年)を読んだ。岸田の『日本がアメリカを赦す日』にしても、この本にしても、私が彼の著作を興味をもって読むのは、心理学や心理療法への関心の延長上で歴史や社会を読み解くことができるからだ。こういう視点からズバリと社会現象をえぐる著者は、あまりいないし、その分析力も鋭く興味深い。

◆日本建国の真相
《まとめ》個人の自我が、挫折、不満、軋轢などを通して成立するように、国家も、何かショッキングな体験を通して成立する。日本国家の成立にとって、それにあたるのは白村江の戦いだった。その敗北で、唐・新羅の連合軍が攻めてくるという脅威を感じたから、豪族同士がまとまって大和の豪族を天皇にした。

また、白村江の戦いは、新羅に追われた百済の遺民が失地回復を企てて失敗したのが真相ではないか。つまり日本は、百済の亡命政権が亡命政権であることを隠蔽したときに建国されたのではないか。さらに、朝鮮半島を追われて日本を作った百済人の隠蔽記憶が『日本書紀』に投影されて、任那日本府とう幻想を作り上げたのだろう。

日本という国は、朝鮮を、朝鮮との関係を否定することによって成立したのだから、そういう事情が尾を引いて、この国が危機に瀕し、アイデンティティが不安定になると、それを立て直すために、またあらためて朝鮮を否定しなければならない。(『日韓いがみあいの精神分析』13〜21)

◆自分の本当の起源は嫌い
《まとめ》キリスト教は、ユダヤ教の一分派だが、キリスト教徒はユダヤ人を長く憎み続けている。誰しも自分の本当の起源が嫌いなのである。自分の独自性を損なうからである。(120)

日本人は、建国の時以来、朝鮮とのつながりを否認し、純粋な日本人という幻想をもつことで、日本を建国した。そのような幻想と否認によって、自己のアイデンティティを保とうとするとき、否認する相手への差別意識が必要となる。

しかし、差別意識には時代によって強弱の波があり、外圧のなかった江戸時代には、外に向かってアイデンティティを強調する必要もないから、差別意識が強まったとは考えにくい。

韓国人への差別意識が強まったのは、明治以後ではないか。ペリーに開国を責められて屈したために、ヨーロッパ人への劣等感が生まれ、その補償として自分より劣等と思える存在が必要となった。それが韓国人やアジア人全体への差別意識につながった。。(『日韓いがみあいの精神分析』110〜111)

◆差別の二重の理由
かなり納得のいく分析だと思う。韓国人への差別意識の根拠が、二つの面から語られている。自分の本当の起源は忘れて、自分の独自性を保ちたいという面と、圧倒的な軍事力をもって迫ってきた欧米人への劣等感の裏返し。

とくに後者は、個人の心理としても、きわめて重要であり、個人心理としても、我々の心のなかには、欧米人への劣等感と、その裏返しとしての、非欧米人への優越意識とが共存する。自分が非欧米人であることも忘れて、経済的な発展などを背景に優越感に浸る。個人心理が、そのまま集団心理ともなる、きわめて普遍的な心理現象だろう。

韓国人に対しては、自分の起源を否認したいという心理も働き、二重の意味で差別意識が強くなったのだろう。

◆攻撃者との同一視
《まとめ》国家がアイデンティティを脅かされ、危機を感じるときには、自分を脅かす敵に学ぶ。これを精神分析で「攻撃者との同一視」という。幽霊を怖がる子供が幽霊の真似をして他の子供を脅かすのと同じだ。国家も同じである。そして模倣しつつ模倣していることを隠す。自分の独自性を主張するために、模倣している当の相手を憎み、軽蔑する。

ペリーに不平等条約を押し付けられたとき、「不当なペリーに屈したのはわれわれが弱かったからだ」と認識するのは屈辱的だから、「文明開化をもたらしたペリーは正しく、開国を嫌がった日本の方が間違っていた」と認識を転換する。そのようにペリーを正当化すると、今度はペリーと同様のことをせざるを得ない心理になる。

まだ鎖国政策をしている韓国は愚かだからと、江華島に軍隊を派遣し、ペリーの行動を模倣することで、ペリーの正当化を強化する。さらに、欧米のように植民地をもち、欧米の植民地主義の手先となり、そのおこぼれをもらうことで軍事力と経済力を身に付けて、いつか欧米に対抗しようとした。それが朝鮮支配、中国侵略、アメリカとの戦争につながっていった。。(『日韓いがみあいの精神分析』121〜134)

◆差別意識:国家と個人
ここまで、主に岸田秀の分析をまとめてきた。そのすべてが正しいとは言えないかも知れぬが、全体として日韓関係や、日本の対アジアへの姿勢を考えるうえで大いに参考になると思う。それだけではなく、我々一人一人のなかにある差別意識を自覚化し、その根元にどんな経験が横たわっているのかを知るうえでも貴重な分析だと思う。

民族差別の問題は、個人の差別意識がそのまま国家レベルの差別意識に連動し、歴史の流れに影響していると考えて間違いない。いや、国家レベルの経験が個人の意識に反映していると言うべきか。

実際には、その両方であろう。ひとつはっきりしているのは、個人個人が、自分の無意識に根ざす差別意識を自覚化し、解消していくことが、国家レベルの問題の解消にもつながっていくということだ。その意味でも、岸田秀の仕事は、もっともっと議論されてよいと思う。

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彼岸の時間―“意識”の人類学

著者は、気鋭の文化人類学者。この著者の本を読むのは初めてだ。他に『性・ 死・快楽の起源―進化心理学からみた「私」』(福村出版)があるが未読。

実に刺激の多い本だった。シャーマニズム、葬送儀礼、臨死体験、セックス、瞑想、サイケデリックス‥‥と多岐にわたる話題を扱いながら、地球上の多様な文化における意識の在りようを、示唆に富む新鮮な視点から描く。文化人類学者としての豊富なフィールドワークや知見を縦横に駆使して、変性意識状態と政治権力との 関係が文化によっていかに変化に富むかを見事に描き出す。

狩猟採集社会では、シャーマン的な人物が政治的なリーダーであることも多いが、その権力はたかが知れており、しかも世襲しない。一方、定住的な農耕社会では、祭司宗教が中央集権的な権力と結びつき、超自然的な世界との交流権を独占するが、それは儀式化し形式化する。そして祭司が権力を持つ社会ではシャーマン的な人物はしばしば異端として弾圧される。

全人類が狩猟採集民だった時代には、サイケデリックスの使用と結びついた脱魂型シャーマニズムが地球上に広がっていた。農耕牧畜の開始以降は、徐々に酒の使用と結びついた祭司・霊媒(憑霊型シャーマン)複合型の宗教文化にとって代わられたという。この段階で、宗教が組織化され団体になると、現世的な権力と相性がよくなり、それと結びつく。そして世界の神秘に直接触れようとするシャーマン的な神秘主義者を弾圧する。シャーマニズムは反体制的なサブカルチャーとなり、現世的な権力と結びついた司祭の立場を危うくするからだ。

これは、農耕牧畜以降の多くの社会が、毒性や依存性のほとんどないサイケディックスを危険な薬物として禁止するのに対応している。しかし実は、サイケディックスがわれわれを文化的催眠状態から「覚醒」させる作用を持っており、「自我」 や「国家」という、本当は存在しないものを存在すると思っている意識状態から、われわれを覚醒させる。だから国家によって禁止されるのだという。

中南米の先住民社会は文明を発展させるとともにむしろサイケデリックスの使用を強化し、脱魂型シャーマニズムを発展させたらしい。著者は、アマゾン先住民の社会でサイケデリックス植物のひとつアヤワスカを用いた儀式に参加し、その変性意識状態を体験している。現存する先住民文化や、この大陸の失われた文明の遺跡などから、サイケデリックな意識状態と共存しうる文明のあり方を考えることが重要になると示唆する。サイケデリィックスを瞑想とならぶ意識変容の技法として捉えて、近代的な思考様式に対する新たな可能性を見ているのだ。

著者はまた、ウパニシャッド哲学に基づいて人間のとりうる意識状態をつぎの4種類に分類している。

0 生命活動が停止している状態‥‥「死」
1 生命活動はあるが知覚のない状態‥‥「昏睡」
2 知覚だけがある状態‥‥「夢のない眠り」
3 知覚に気づいている状態‥‥「自我意識」
4 「知覚に気づいている状態」に気づいている状態‥‥「観察する意識」

このうち「第四の意識状態」は、悟りとか覚醒とか言われる状態を指すが、これを踏まえて次のようにいう。「資本主義と科学技術の爛熟した時代の中で、『第四の意識状態』がふたたび宗教という装置の検閲を経ないなまの形で経験される状況が生まれてきている。‥‥ 人類史上、意識の神秘それ自体について語れるようになった初めての時代だといってよい」という指摘は、私がニューエイジ対話でも打ち出していた考えであり、深く共感する。

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環境と文明の世界史

きわめて興味深い本だった。新書で、しかも三人の学者の鼎談による本で内容がこれほど刺激的で充実しているとはちょっと信じられないほどだ。著者のひとり安田喜憲の本については、このブログでもしばしば取り上げ、影響も強く受けてきた。彼はあとがきで、「今まで自分ひとりで考えていたアイディアが、鼎談によって何倍にもふくらみ、自分が思ってもみなかったまったく新しい世界が開け」たと語っているが、この本は文字通りそのような豊かな展開と深い洞察にあふれ、何冊かの分厚い専門書を読んだような読後感がある。

ここでは、ムギ作とコメ作の文明を環境変化の視点をふまえてこの本がどのように論じているかを紹介しよう。

四大文明はムギ作を基盤とした文明であった。そのため、これまでの世界史はムギ作を中心に描かれ、コメの文明は不当に扱われる傾向があった。ムギはコメに比べ生産性が低いので多くは牧畜を伴う。しかし近年、中国文明の源流は黄河流域ではなく長江流域にあったのではないかという説が注目されている。そして、長江文明は、牧畜を伴わない稲作文明であり、森の文明であった。

日本史の通説では、弥生文化は朝鮮半島経由で大量の人々が日本列島に渡来したときに始まるとされていた。そうであれば、当然家畜を伴っていたはずなのに実際はそうではなかった。とすれば弥生文化の基本を作ったのは長江からやってきた越人である可能性も高い。

どちらにせよ弥生人が牧畜を持ち込まなかった、ないしは縄文人が牧畜を取り込まなかったことは、日本文化のその後の性格に大きな影響を与えた。牧畜が持ち込まれなかったために豊かな森が家畜に荒らされずに保たれた。豊かな森と海に恵まれた縄文人の漁撈・採集文化は、弥生人の稲作・魚介文化に、ある面で連続的につながることができた。豊かな森が保たれたからこそ、母性原理に根ざした縄文文化が、弥生時代以降の日本列島に引き継がれていったとも言えるだろう。

一方、ユーラシア大陸の、チグリス・ユーフラテス、ナイル、インダスなどの、大河流域には農耕民が生活していたが、気候の乾燥化によって遊牧が移動して農耕民と融合し、文明を生み出していったという。遊牧民は、移動を繰り返しさまざまな民族に接するので、民族宗教を超えた普遍的な統合原理を求める傾向がが強くなる。

さらに彼らのリーダーは、最初は家畜の群れを統率する存在であったが、それが人の群れを統率する王の出現につながっていく。また、移動中につねに敵に襲われる危険性があるから、金属の武器を作る必要に迫れれた。こうした要素が、農耕民の社会と融合することによって、古代文明が発展していったという。これはまた、母性原理の社会から父性原理の社会へと移行していく過程でもあった。

また天水農業によるムギ作は、かなり粗放的なので、奴隷に行わせることもできた。しかし稲作は、いつ何をするかの時間管理に緻密さが要求され、集約的なので、奴隷に任せることができない。稲作文明で大規模な奴隷制が発生した例は見られない。さらに、家畜管理の技術と奴隷管理の技術は連続的なものだったろうから、稲作・魚介型で牧畜を行わなかった日本では、奴隷制が発生しにくかったのではないか。

さらにムギ作は、天水農業の下では個人の欲望を解放する傾向をもつという。水に支配される度合が少なく、自分が所有する土地を好きなように耕作できるからだ。一方稲作は、水の管理が重要で、共同体に属して協調しないと農耕がしにくい。その分、個人の欲望は解放しにくいわけだ。

牧畜を行わず、稲作・魚介型の文明を育んできた日本は、ユーラシアの文明に対し、どのような特徴をもったのだろうか。

)卉椶砲茲訖肯喃鵬を免れ、森に根ざす母性原理の文化が存続したこと。
宦官の制度や奴隷制度が成立しなかったこと。
M桂劼篷卉椶般接にかかわる宗教であるキリスト教がほとんど浸透しなかったこと。
ね桂劼篷卉椶鯒愀覆砲靴拭⊃祐屬搬樟己の峻別を原理とした文化とは違う、動物も人間も同じ命と見る文化を育んだ。    

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近代インド思想の形成

  ★『近代インド思想の形成』★

著者、玉城康四郎は、仏教学者として多くの著作を残している。しかし重要なことは、単なる学者ではなく、若き日からの座禅の実践のなかで、深い瞑想体験をもち、学問的な研究が体験に裏打ちされていることだろ。それはきわめて稀なことだ。

本書は、600頁に及ぶ大著だが、ヴィヴェカーナンダとオーロビンドを中心として近代インド思想の形成の過程を追う労作だ。前半、インドの伝統思想が近代西欧との出会いと対決を通じて、どのように自己を変革していったか、を扱う重厚な論考だ。

後半、とくにオーロビンドについては、日本での本格的な紹介は少なく、彼の思想についての論考だけでも一冊の本をなす内容である。

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不可触民―もうひとつのインド

不可触民―もうひとつのインド (知恵の森文庫) 

インド思想史などを読んでいたのでは、絶対に分からない、これほどに圧倒的な差別の現実を今まで知らなかったという驚き。これほどに情報が発信され受信される世界においても、抑圧される人々が発信の手段すら満足にもたなければ、2億の人々の驚くべき現実がかんたんに遮蔽されてしまうという事実への驚き。ひとつの制度の中で甘い生活を許されてしまった人間は、他者をどんなに苦しめようと、その生活を守っていこうとするのが現実なのだということの、大規模なレベルでの確認。

今後私は、不可触民の視点を意識せずにインドの精神世界に接することはできないだろう。インドの不可触民問題は、たんにインド一国における差別問題なのではない。インドにあれほどに連綿と続いた高い精神性の伝統と、その一方でその伝統と一体となったカースト制度。人間を差別し虐げる文化的装置として、これほどに強烈で徹底的なものはない。その矛盾の深さ。

この本を読んでこれほど強く何かを訴えかけられたように感じるのは、この矛盾の深さによって、人間とは何か、人間の歴史と文化とは何かという根源への問いかけを強いられるからだ。ここに人間とその文化の一面が剥き出しにされているのだ。

「自分たちの一番厭な肉体労働、不潔な仕事の一切を、世襲的に背負わせ、土地をあたえず『農奴』としてただ同然に働かせる。女は男のセックスの慰み物として、好きなように扱う。‥‥こういう存在が一億以上もいて、人々に奉仕してくれるのなら、だれだってそういう制度は、あってくれた方がいい、と思うじゃありませんか。」

こうしてしかも、衣食住については一切責任を負わないのだから、奴隷制よりもなお悪いと、不可触民は訴える。制度として保障されさえすれば、人は誰しもこうした文化装置のうえに乗ったっま、差別から眼をそむける可能性がある。現にそのような事実が3000年も続いてきたのだから。

インドの精神性に引かれれば引かれるほど、カースト制の現実にもっともっと眼を向けていきたいと思う。

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ヒンドゥー教 インドという謎

ヒンドゥー教 インドという謎 (講談社選書メチエ)

一方に精緻な哲学思想、洗練され高度に発達した「知」の体系としてのヒンドゥー教、他方に庶民の生活や感じ方のレベルで息づくヒンドゥー教。本書は、第一部で生活に溶け込んだヒンドゥー教を語り、第二部で緻密に体系化された哲学思想としてのヒンドゥー教を扱う。もちろん、両者が密接に結びつくものという前提にたっての二部構成である。

この試みが成功しているかどうかは分からないが、私にとっては第二部で古代から現代に至るヒンドゥー教の歴史を、手短に一望できるのがありがたかった。

意外だったのは、南アジアにおけるヒンドゥー教とイスラーム教が、歴史的にかならずしも対立状況になかったのではないかと著者が指摘ているところである。二つの宗教は、互いに「他者」という意識も希薄なまま、互いに敵意を抱かずに共存してきたというのである。そういう前提にたって、ではなぜ現代において両者が対立するのかを著者は問う。そしてその理由をイギリスのインド支配の過程で起こった三つの要因のうちに見る。詳細は省くが、西欧的な宗教観にたったイギリスによる国勢調査、マスコミの発達、西洋的な宗教観の影響を受けたインド人自身によるヒンドゥー教観の確立。その上に、インド・パキスタンの分離独立とそれに続く印パ対立が続くというのだ。

いずれにせよ、ヒンドゥー教が西欧思想と出会うことで自己理解をどのように変貌させ深めていったかは、興味深いテーマであり、本書でも第6章「近代インド思想の展開」でその点に触れられている。

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はじめてのインド哲学

はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)

インド哲学の概論ではなく、「自己と宇宙の同一性の経験」というインド精神のもっとも重要なテーマに焦点を当てたインド精神史であるという。私自身が、こうしたテーマにもっとも関心が深いので興味深く読めた。しかも「仏教の誕生」、「大乗仏教の興隆」、「タントリズム(密教)の出現」という、仏教に関する独立した章を設け、インド哲学との関係、異同、深い相互の影響などにも丁寧に触れているので、学ぶところが多かった。

インド哲学が、古代から何をどのように問いつづけてきたのか、その問いと探究はどのように変化しつつ今日に至るのか。この本で、その4500年におよぶ歴史を振り返ると、ある感慨に打たれる。現代に生きる私が直面し、問い続けている問いが、多くのすぐれた人々によって繰り返し問われ、論争され、探究され続けてきたのだということ。

たとえば、人間の通常の営みを、否定さるべき「俗なるもの」として規定し、その否定の結果として顕現する精神的至福(悟り)を得ようとする態度は、古来「ニヴリッティ・マールガ」(寂滅の道)と呼ばれた。初期仏教の出家僧やヨーガ行者たちが歩むのは、この道であった。

仏教の開祖ブッダは、その意味ですぐれたヨーガ行者であった。古代ヨーガ行者たちは、心作用を統御・止滅させる手段としてヨーガを重視した。そのようなヨーガの伝統は、タントリズム興隆期に明らかな変化を経験した。タントラ的ヨーガは、実践者の心作用を統御し、止滅させる方向にではなく、活性化・増強する方向に働かせる。

タントラ的ヨーガでは、心作用は、「俗なるもの」として否定されることはなく、むしろ肯定さるべき「聖なる」心的・宇宙的エネルギーの活動と考えられた。

「止滅」の道、あるいは現世否定の態度は、「聖なるものの」の顕現を目指すが、その道は、出家僧やヨーガ行者のみがなし得ることだった。時代が下るにつれて、「俗なるもの」が権利を主張しはじめ、「聖なるもの」を犯していたが、この俗化の歴史がインド精神史であるかもしれない、と著者はいう。

私自身が、ヴィパッサナー瞑想を実践しつつも、その背景にある初期仏教の「止滅」の道、ないし現世否定の態度には、どこかで疑問を感じている。その疑問が、実はインド哲学史の全体にかかわる問題であるということを、この本で改めて確認したのである。

仏教はインド哲学のアンチ・テーゼといわれる。この本でも、ブッダの仏教が当時のウパニシャッドの伝統に対するアンチ・テーゼであり、いかに革新的なものであったが具体的に述べられている。インド哲学の伝統全体のなかでブッダの思想がどのように異質で、斬新なものであったかを認識しておくことは重要だと思う。

大乗仏教の興隆期に仏教哲学とバラモン哲学が、互いに批判しあいながらそれぞれの思想を形成していった様子も、分かりやすくまとめられており、興味深い。

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日本がアメリカを赦す日

日本がアメリカを赦す日 (文春文庫)

著者は、精神分析を国家のあり方に応用し、日本をペリー・ショックによる精神分裂病患者、アメリカをインディアン虐殺に起因する強迫神経症患者として実に興味深く分析している。近代日本にとっていちばん根深い無意識的な傷が黒船の威圧によって無理強いされた開国にあるというのが岸田の有名な仮説である。一方、アメリカ建国にともなう深層のコンプレクスは、アメリカ先住民(インディアン)を死においやり、その犠牲の上に現在のアメリカがあるということである。フロイトの理論を国家のあり方や国家間の摩擦に応用して精神分析するという手法は、それ自体たいへん興味深い。

岸田の分析をすべて受け入れる必要はないだろうが、少なくともこうした視点から日米関係を振り返るための重要な素材が提供されたと言うべきだろう。また、国家としての集団の精神構造を自覚的にとらえる作業は、自分自身の精神構造を自覚化する上でも大切だ。

余談だが、トム・クルーズが主演した『ラスト・サムライ』を、私は映画として評価しないが、インディアンと日本人とをオーバーラップさせるアメリカ人の意識が、ストーリーや画面に計らずも反映していて興味深い。またそこには、インディアン虐殺に対する罪悪意識を浄化しようとする、たぶんに独善的な心理が暗示されているとも言えよう。岸田理論は、『ラスト・サムライ』を見るうえで大きなヒントを与えてくれる。

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韓国:倫理崩壊

著者は、最近日本に帰化した韓国人。彼女は、近年の韓国の倫理崩壊の根元にある問題を次のように見る。

日本では、旧時代以来の共同体的な親和関係が生き残ろうとする要素と、近代的な個人主義に基づいた市民的な社会に向かおうとする要素が、互いに作用しながら発展した。この二つの要素がうまく合成されて社会を進める力となった。現代日本社会の特徴は、この旧時代的な親和関係が生き残ろうとする要素を抜きにして形成しえなかっただろう。日本の社会の良さのかなりの部分が、その伝統に負っているということである。

一方、韓国の場合、その伝統社会にあったのは、共同体的な親和世界ではなく、利己的な党派主義の世界だったのである。韓国では、この利己的な党派主義が温存され、さらに個人レベルの利己主義と渾然一体となり、その利己性をいっそう拡大していった。伝統と近代という二つの要素が、マイナスに相互作用して、社会の倫理崩壊を招いていったというのである。

韓国の倫理崩壊の具体的な姿は、「外貌重視と虚飾の文化」「虚偽と虚勢の社会習慣」など、各章の見出しを見てもかなり手厳しい。「裏返し」の日本社会論として、自らを振り返る鏡として、これからの日本で進むかもしれない「倫理崩壊」を少しでも食い止めるために何をしなければならないか、多くのヒントを与えてくれるだろう。

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