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脳内現象:批判的考察

◆『脳内現象 (NHKブックス)』茂木健一郎(2004年)

★認識論モデル
《まとめ》意識の中で感じられる世界は、〈私〉に中心化されている。物質の質量は、視点を特定することなくその存在を論じることができる絶対的な存在だが、クオリアは、それを感じる〈私〉という視点に相対的にしか成立しない。すなわちマッハの原理からクオリアに満ちた意識が生み出されるモデルは、存在論的というよりは認識論的でなければならない。

オリジナルのマッハの原理では、各粒子の関係性からそれぞれの質量が決定される際、ある特定の視点を仮定する必要はなかつた。どんな立場から見ても質量は質量であるような、「公共性」を帯びたものであった。

一方、クオリアに満ちた意識が生み出される過程には、このような公共性がない。〈私〉が感じる赤のクオリアは、あくまでも〈私〉という主観にとって赤のクオリアなのであり、第三者にとってはそうではない。〈私〉の脳内の神経細胞の活動は、〈私〉だけに様々なクオリアをもたらすのであつて、脳の外からそれを客観的に観察している第三者にとっては、そこにクオリアは存在しない。あくまでも、〈私〉という脳の神経細胞の活動を見渡す「小さな神の視点」に特化した私秘的なもの、すなわち、存在論的ではなく、認識論的なものとして成り立っているのである。

★ホムンクルスの必然性
《まとめ》 問題の本質が認識論的だとことは、神経細胞の相互関係性からクオリアが生み出されるにしても、その関係性を見渡すのは誰かという問題が生じるというこということである。神経細胞の活動の関係性が把握され、獲得されるプロセスは何か? という問題が生じるということである。ここに、マッハの原理から意識の起源を説明する筋道において、ホムンクルスの成立を議論しなければならない論理的必然が生じる。

何かがある形で存在しているという「存在論」と、何かが認識されるという「認識論」の関係をどのように考えるかは、掛け値なしに難しい問題である。
(187から188)

★存在論と認識論
もし、「存在論的」と「認識論的」という用語を使うなら、「存在論」で「認識論」を説明し尽くすことの原理的な難しさがここで問題にされていることになる。物理・化学的な過程をいくら分析しても「主観性」を前提とした認識問題について何も語ったことにはならないだろうし、何も解決はしないだろう。従来の科学の方法で物質過程を分析することで、主観性そのもの、ホムンクルスそのものを説明することは原理的に不可能なのだ。

「存在論」と、「認識論」の関係をどのように考えるかは、難しい問題であるだけなく、すでに科学の領域を踏み出し、哲学の領域に踏み込んでいる。従来の物質主義的な世界観に留まるかぎり、この関係を語る道はありえない。科学そのものが、自己理解を新ためて変貌していかないかぎり、科学の側からこの問題を解決することは不可能であろう。茂木の試みは、この不可能を可能にしていると言えるのだろうか。さらに茂木の論議を追いたい。

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