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    2017.03.19 Sunday/ -/ / -/ -/ -/ -/ by スポンサードリンク

魔女とカルトのドイツ史

◆『魔女とカルトのドイツ史』(浜本 隆志、講談社現代新書)

■集団妄想としてのカルト
この本は、集団妄想によって引き起こされる異常な宗教的・社会的行動をカルトと呼ぶ。そしてナチスの「ヒットラー・カルト」は突発的に歴史上にあらわれたものではなく、中世の「ハーメルンの笛吹き男」伝説から「子供十字軍」、ペスト時におけるユダヤ人大虐殺、魔女狩り等々の形で連綿と続いていたという。

ヨーロッパ各地でも集団妄想やカルトは生じているが、とくにドイツでは、各国に比べてその規模が大きく、被害は甚大である。本書は、中世から現代に至るドイツで集団妄想がどのように発生したのか、そのメカニズムのドイツ的性格は何かを考察している。その中で、キリスト教と、それ以前の基層文化(ケルトやゲルマン)との関係にも言及されているが、その際ケルト文化への視線は、かならずしも肯定的なものではない。

■宮崎アニメとケルト文化
ところで『宮崎アニメの暗号 (新潮新書)』は、宮崎作品に大きな与えたケルト神話について述べている『風の谷のナウシカ』における科学と自然の対決は、すなわち文明の側と森の側の対決を意味しており、それはそのままローマとケルトの関係と相似形をなしているという。ナウシカは、森を敵視することなく、森に畏れを抱き、それと一体化することで深き叡智を発見することができた。2000年以上前に、ケルトの森でそれを実践していたのがドルイドと呼ばれる宗教者たちだったという。欧州の中世の森には「魔女」がおり、さらにさかのぼれば「森の人ケルト」のドルイドがいた。彼らは、キリスト教やローマ文明というその時代の中心からすれば、辺境の地に生きる反体制者だった。ということで『宮崎アニメの暗号』と『魔女とカルトのドイツ史』とでケルトへの見方がどのように違うかを比較しつつ、この本を論じたい。

■ユダヤ人差別の深層心理
影の現象学 (講談社学術文庫)』において河合隼雄はいう、ナチスドイツは、すべてをユダヤ人の悪のせいであるとすることによって、自分たちの集団のまとまり、統一性を高めた。集団の影の面をすべて、いけにえの羊に押し付け、自分たちはあくまで正しい人間として行動する、と。ユングは、ナチスの動きをキリスト文明においてあまりに抑圧された北欧神話の神オーディンの顕現と見ていた。本能の抑制を徳とするキリスト教への、影の反逆であると理解したのである。

岸田秀は『一神教vs多神教』のなかで次のようにいう。一般に被害者は、自分を加害者と同一視して加害者に転じ、その被害をより弱い者に移譲しようとする(攻撃者との同一視のメカニズム)。そうすることで被害者であったことの劣等感、屈辱感を補償しようする。自分の不幸が我慢ならなくて、他人を同じように不幸にして自分を慰める。 多神教を信じていたヨーロッパ人もまた、ローマ帝国の圧力でキリスト教を押し付けられて、心の奥底で「不幸」を感じた。だから一神教を押し付けられた被害者のヨーロッパ人が、自分たちが味わっている不幸と同じ不幸に世界の諸民族を巻き込みたいというのが、近代ヨーロッパ人の基本的な行動パターンだったのではないか。その行動パターンは、新大陸での先住民へのすさまじい攻撃と迫害などに典型的に現われている。

西欧人がユダヤ人を差別するのは、西欧人がローマ帝国によってキリスト教を押し付けられ、元来の民族宗教を捨てさせられ、元来の神々を悪魔とされたところに起源がある。そこで本来ならローマ帝国とキリスト教に向くはずの恨みが、転移のメカニズムによって、強者とつながりのある弱者に向かう。強者に攻撃を向けることは危険だからである。ローマ帝国や、自分たちがどっぷりつかっているキリスト教を攻撃できず、キリスト教の母胎となってユダヤ教を攻撃するのである。つまり反ユダヤ主義は、深層においては反キリスト主義であるという。

■ナチスとゲルマン・ケルト文化
ルイス・スナイダーの『アドルフ・ヒトラー (角川文庫 白)』(角川文庫)では、ヒトラーの反キリスト教的な考え方について述べている。「彼はキリスト教を、ドイツ人の純粋な民族文化とは無縁な異質の思想として排斥した。『キリスト教と梅毒を知らなかった古代の方が、現代よりもよき時代だった』とヒトラーは述べている。」 一部のナチ党指導者たちは、キリスト教を完全に否認した。そのかわり、彼らは「血と民族と土地」を崇拝する異教的宗派の樹立を望んだ。新しい異教徒たちは、オーディン、トールをはじめとするキリスト以前の古代チュートン人の神々を復活させた。旧約聖書のかわりに北欧神話やおとぎ話を採用した。そして新しい三位一体――勇気、忠誠、体力を作り出した。

岸田は、「反ユダヤ主義は、深層においては反キリスト主義である」と述べたが、ヒトラーおよびナチにおいては、深層においてどころか声高に反キリスト主義が叫ばれていたのである。西欧の反ユダヤ主義の深層には、確かに自らの文化の中核をなすに到ったキリスト教への反感があり、それが、ナチズムのような「退行」的な現象においては、はっきりと表面に出てくると言えるのかもしれない。

『魔女のカルトのドイツ史』では、キリスト教以前のゲルマン、ケルト文化とドイツの集団妄想やナチスの思想との関係をやや別の角度から指摘している。著者によればヒトラーは、キリスト教文化の背後にある基層文化を意図的にナショナリズムに結びつけて利用した。ヒトラーが政権を掌握した祝いとしてベルリンで盛大なたいまつ行列が行われた。この演出は、ゲルマンの火祭りを連想させ、人々に古い過去へのノスタルジアを引き起こした。他にもナチスは、多くの「ゲルマン風」の集会を行っている。ナチスは、ゲルマン的な民族主義にもとづいて、「世界に冠たるドイツ」というスローガンを標榜したのである。

■なぜドイツで
歴史上の集団妄想やカルト集団は、その徹底性、犠牲者数、被害の規模という点で、イタリヤ、スペインなどの南欧に比べると、北欧のドイツが群を抜いていた。その理由はどこにあるのか。著者は、それぞれの基層文化の違いに注目している。南欧型の基層文化は、もともと地中海地方の地母神的な多神教に由来している。そこには、人々の鬱積した不満を解消し、社会の「安全弁」になるような開放性があるという。他方、北欧型の基層文化は、北方ゲルマンの長い冬、陰鬱な気候、きびしい自然のなかで育まれ、「森の民」ケルトの樹木(オーク)信仰、自然崇拝を受け継いできた。元来それは、男性的、父権的であり、きまじめで禁欲的であった。それがキリスト教的な父権制と重なり、ドイツではさらに増幅された。ゲルマンの主神たちは、荒々しく闘争的で、とくに最高神オーディンは、「嵐の神」、戦争をつかさどる神である。

ドイツ地域がキリスト教化される過程において、ローマ・カトリックはゲルマンあるいはケルトの信仰と摩擦を起こした。両者の父権的特性は一面で共通していたが、一神教は異教の神々を容認するはずがなかった。ドイツの地は、表面的には完全にキリスト教化され、アニミズムや異教的要素は歴史のそこに沈滞してしまったようにみえる。ところがゲルマンの神々は、キリスト教化されるプロセスで、その多くは悪魔やデーモンにおとしめられたり、デフォルメされたりしながらも、深層で脈打っていた。こうして北欧の民族性は、抑圧されたフラストレーションを内在させ、突然、それを爆発させて攻撃的になりやすい。

魔女狩りは、古代の抑圧されたアニミズムが噴出した一例とされる。魔女狩りは、ルネサンスの時期以降から蔓延しはじめた。この時代は、中世のキリスト教の桎梏から解放され、人間性や合理性が勝利したかに見えた。しかし反面、中世では禁じられていた古代の占星術や呪術、魔術が復権した時代でもあった。多くの農民たちが持ち続けていたアニミズム的な民間信仰も抑圧を解かれた。大きな時代の転換点で、その価値観の亀裂のなかから基層文化の非合理的なマグマが噴出してきた。それが魔女信仰を醸成し、魔女狩りの背景となったと著者は捉える。

ドイツ地域がキリスト教化される過程において、ローマ・カトリックはゲルマンあるいはケルトの信仰と摩擦を起こした。キリスト教の父権的特性は、ゲルマンのそれと一面で共通していたが、一神教は異教の神々を容認するはずがなかった。ドイツの地は、表面的には完全にキリスト教化され、アニミズム的な要素は、歴史の底に沈滞したかにみえた。ところがゲルマンの神々は、キリスト教化されるプロセスで、その多くは悪魔やデーモンにおとしめられたり、デフォルメされたりしながら、深層では脈打っていたのである。

異端狩り、中世のユダヤ人狩り、魔女狩りなどとナチスのユダヤ人迫害との間には何らかの連続性がある。ひとつの共通点は、ステロタイプ化された「陰謀の神話」である。たとえば異端狩りと魔女狩りでは、「秘密集会」や「魔術の行使」などほとんど一致する捏造された迫害理由が挙げられる。またヒトラーは、「シオンの議定書」なる陰謀書類をでっち上げて、ユダヤ人「撲滅」作戦の理由とした。もっと根源的な共通性は、古代ゲルマンから連綿とつながる非合理主義の系譜であり、表層のキリスト教的な文化の下に胎動するゲルマンのどろどろとしたデーモンであった。キリスト教によって抑圧された、ゲルマン的な非合理な熱情が噴出するときに集団妄想による破壊や殺戮が起こるのではないか、というのが著者の捉え方である。

■アニミズムの意味をめぐって
以上からも分かるように本書の著者は、北欧の基層文化、古代ケルトやゲルマン源を発するアニミズム的信仰、呪術や魔術への熱情をかならずしも肯定的に捉えてはいない。もちろん、著者も南欧型の基層文化には、鬱屈するフラストレーションに対する「安全弁」の役割もあることを指摘している。だから古代文化そのものを否定的に捉えているわけではないだろう。しかしゲルマン的な背景が、ドイツを中心として集団妄想やカルトの歴史において重要な要因になったことは事実として指摘している。

一方『宮崎アニメの暗号』(新潮社、2004年)において青井汎は、宮崎駿が「科学」とその大元にある「唯一神」という二つの絶対的な「神」に対して、憤りを抱いていたという。それに対して、太古の時代には、人はカミとも動物とも隔てなく、同時に存在することができた。「動物に対して一方的な人間」「自然を軽視する科学・産業」「人に対する絶対的な神」が世界を覆い尽くすことはなかった。そのように、人と森、人と動物、人と万物の平等な関係が崩れていなかった時代として、古代ケルトやゲルマンの文化をも積極的に評価しているのである。

私自身は、宮崎的な視点に深い共感をいだきつつ、一方で現代科学文明や抑圧的なキリスト教との関係で古代文化が担ってしまった、あるいは担わされてしまった不幸な機能にも冷静に目を向けていきたい、いかざるをえないと思った。『魔女とカルトのドイツ史』は、そんなことを考えさせる本であった。

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インド哲学七つの難問

◆『インド哲学七つの難問 (講談社選書メチエ)

この著者の本はすでに何冊か読んだ。『ブッダが考えたこと』や『ブッダ・伝統的釈迦像の虚構と真実』などである。いずれも、「常識的仏教観、釈迦像を撃ち破る内容」というか、従来の著名な仏教学者の説を覆すような発言が目立つ。かなり野心的な研究者であり、それなりに面白い。しかし、ブッダの目覚めとは、根本的な生存欲の滅を達成することであったが、そのための修行法は、「思考停止を目指す瞑想」ではなく「徹底的に思考する瞑想」だ主張する点など、納得できないところも多かった。

著者の専門はインド哲学であるが,その専門分野においての野心的な試みがこの本である。「正統的」インド哲学研究者たちは、インド哲学研究はインド思想史研究でなければならないとし、ひたすら調査、整理、陳列のみを心がける。著者はそれに飽きたらず、伝統的なインド哲学と対話しつつ自ら哲学しようとしたのがこの本である。

第三問「本当の『自己』とは何か?」、第四問「無我説は成り立つか?」など、私にとっても興味深いテーマが並んでいる。

◇第三問「本当の『自己』とは何か?」を例に挙げよう。まず、インド哲学における自己論の基礎を築いたヤージュニャヴァルキヤ(紀元前8〜7世紀)の説が紹介される。要点は、自己は、環境のなかにあるけれども、環境とは異なるものであり、環境をその環境たらしめているもの、環境をうちから照らし出すということだ。自己は、心の作用と心と身体と環境とのなかにあるけれども、それらとは異なり、それらを内から照らし出すものである。仏陀の五蘊(心身の五要素)非我説も、この説を正統に継承していおり、のちのインド哲学全般に見られる説である。

認識主体が認識対象になりえないというこの説は、不二一元論(幻影論的一元論)の開祖シャンカラも受け継いでいる。「認識しようとする欲求をもつものこそが認識主体」であり、「認識主体に属する認識しようとする欲求は、‥‥認識主体を対象とすることはありえない。なぜなら、認識主体を対象とするとすると、認識主体と、認識主体を認識しようとする欲求は、無限後退にするという論理的過失に陥るからである。」

すなわち、認識主体が認識されたとすれば、それはもはや認識対象であるから、それを認識する主体が別になければならない。結局、どこまでいっても、認識主体はつねに私たちの背後に廻り続け、けっして認識はされない。こうして自己は、私たちが知りうるものの中には、けっして入ってこない。そして私たちが知りうるものの総体が世界であるなら、自己は世界の外にあることになる。

釈迦時代の六派哲学の一つであるサーンキヤ哲学では、精神的原理であるプルシャ(純粋精神)と物質的原理であるプラクリチ(根本原質)の二つの実在的原理を想定する。精神原理である自己が、非精神原理(ここから流出したものが世界である)の外にあて、これをじっと見るものだという。サーンキヤ哲学は、ヤージュニャヴァルキヤの自己論の核心を正確に継承したのである。さらに8世紀にヴェーダンタ哲学を不二一元論で一新したシャンカラが、サーンキヤ哲学と唯識学派から大量にアイディアを取り込んで、その自己論を形成したのだという。

◇クオリア問題との関係で
以上の議論は、現代の脳科学におけるクオリア問題を考えるうえでも興味深いであろう。 クオリアは、「赤い感じ」のように、私たちの感覚に伴う鮮明な質感を指す。クオリアは、脳を含めての物質の物理的記述と、私達の心が持つ様々な属性の間のギャップを象徴する概念である(茂木健一郎)。

私は、クオリア問題の根底に、認識主体はけっして認識されないという「こころ」ももっとも原理的な特徴が横たわっていると思う。「私達の心が持つ様々な属性」の根底には、認識対象になりえないという認識主体の主体性という問題が厳然とあるのだ。この哲学的な問題をどう扱うかを抜きにしてクオリア問題を論じるのはナンセンスだ。それは、前提となるいちばん重要な問題を回避することである。認識対象にはけっしてなりえないという主体の主体性は、「脳を含めての物質の物理的記述」をいかに積み上げても説明することはできない。その原理的な不可能性を、理論的に正確に明らかにすることこそ、クオリア問題を論じるための前提であると思う。

また、対象になりえない主体の主体性という問題は、主体を主体として経験するものの唯一性という問題ともからむ。ここから輪廻する主体は何かという問題も視野に入ってくるような気がする。

◇「本当の『自己』とは何か」という章の最後で著者は、余談として「自己と心身をめぐる問題」に触れている。この「余談」が私にはかなり大きなテーマとなる。

西洋哲学の影響下の哲学者たちは、心身と自己との関係を問題とし、「私」とは、心か身体かと問い続ける。インドの自己論では、自己ははじめから心身と無関係である。自己は、世界の外にある。

たとえば、もし私が失神しているうちに記憶も身体もすっかり改造され、その上で意識を取り戻す。その時に「私は私だ」と発する「私」は、失神以前に発していた「私」が指していたものと同じなのか。

インド哲学の答えは明瞭である。それは同じであり、心身とはまったく無関係なものであるということだ。自己が世界の外にあるなら当然の結論だということか。つまり、自己は心身とはまったく無関係に常住にして不変だからなのか。

インド流に輪廻転生のたとえでも結論は同じである。もし私が死んで牛に生ま変わり、人間であったときの記憶を一切失ったとしても、認識主体としての自己は同じということになる。経験の中心、認識主体の主体性としては唯一で同一だからである。

◆蛭川立『彼岸の時間』第7章の議論をめぐって
かつて別のブログで『彼岸の時間』の中の議論に触れて輪廻の問題を扱ったことがある。そこでの議論を、インド哲学の自己論と重ね合わせて考えてみたい。

蛭川は、輪廻問題との関連で、死んでいった人と同じ記憶をもつコピー人間は、個人と同じ人物とみなせるかどうか、という問題を提出する。コピー人間の問題は、人口頭脳(AI)問題においても出現する。「かりに人間以上の記憶容量と処理速度をもつコンピュータができたとして、死の直前に、今までの人生の記憶などのすべての情報をその機械に移し替えることができたとしたら、そのコンピュタは「自分」だといえるのか」という問題だ。

技術的な問題がすべて解決したとして、「心の転移」によってつくられたコピーは、本当に「私」なのか。さらにもし、外見も中身もまったく同じで第三者に区別できないようなコピー人間が出来たとして、それは本当に「私」なのか。以下は、かつての私の議論。「私」とは、喜び悲しみ、苦しみや楽しみを感じている主体のことである。目の前にいるコピー人間が、外見も記憶も感じ方も私と同一だとしても、私と別個の主体として世界を体験している以上それは「私」ではない。

ここには、経験主体、認識主体の唯一性という問題が潜んでいるが、いずれにせよこの問題は、根源的な難しい問題である。ながながと書いたのは、このインド哲学の本が、クオリア問題も含めた、現代人の哲学的な難問と深くかかわっている問題提起をしているということである。

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アンベードカルの生涯

アンベードカルの生涯 (光文社新書) 

一読、ぐいぐいと引き込まれる。アンベードカルが不可触民の間でもある程度恵まれた家庭に育ったことは知らなかった。それでも以前他で読んだ記憶のある少年時代の差別は、きわめて強い印象を残す。不可触民であるがゆえに共同井戸の水を飲めず、喉の渇きに耐えかねてこっそり飲んでいるところを見つかり、あざだらけになるほど殴られる。学校でも、誰かが水をのどに流しこんでくれるのを待つほかない。教師たちは、穢れをきらい、面と向かって教えることも、質問することも拒否する。彼が黒板に近づくと、他の生徒は弁当が穢れないように他へ移す等々。

アンベードカルは、藩主バローダに見込まれアメリカに留学し、ついでイギリスに留学する。再度留学したときの限られた時間と費用の中での猛勉強の様子。時間と費用を節約するために昼食も抜いて、大英博物館館内の図書館に通い詰める。同胞の不可触民のためにと超人的な克己奮励するその姿。不可触民を「奴隷状態」から解放しようとするその意志の強さと、政治的な実行力。それでも愛する息子を失ったときには、迫害に対してはあれほど忍耐強かった彼が、深い苦悩に沈潜し、ほとんど死んだように眠る日々が続いたという。

第10章「ガンジーとの戦い」とそれに続く章は圧倒的である。アンベードカルは、ガンジーに向かって「私には祖国がありません」という。「‥‥犬や猫のようにあしらわれ、水も飲めないようなところを、どうして祖国だとか、自分の宗教だとかいえるのでしょう。自尊心のある不可触民なら誰一人といてこの国を誇りに思うものはありません。」

その圧倒的なガンジーとの対決場面。これまでのガンジーの印象が一変してしまうようなその一言一言のやりとり。挙げればきりがないが、インド独立運動の影で、不可触民解放のためのこのような必死の努力がなされていたことに強い感銘を受ける。これまで現代インド史を見る眼がいかに浅薄なものだったかを痛感する。

不可触民が政治の場に参加することを願うアンベードカルの要求に対するガンジーの敵意は、インド各地の不可触民に大きな衝撃を与えたという。そのようなガンジーにアンベードカルは仮借のない攻撃を向けた。それは、強固な意志力をもったガンジーに限りない憤怒の念を生じさせ、その怒りを抑制するのにたいへんな努力を要したほどだった。

しかし、1932年のイギリス政府のコミュナル裁定に反対して行われたガンジーの「死に到る断食」は、アンベードカルを譲歩させ、指定カーストの第三勢力が政治の土俵に上がることを防ぐ結果となった。

ここに書かれているのは、あくまでもアンベードカル側からの記述であるから、ガンジーがそのとき置かれた状況を私なりに確認しないと何とも言えない。それにしてもガンジーを単純に「聖者」とみなすのではなく、不可触民の解放運動との関係をもっと調べる必要があることは十分に分かった。

通読してアンベードカルの巨人たるゆえんが、いやというほど分かった。6000万指定カーストは、アメリカの黒人よりも悲惨だった。その「穢れ」によって同じ井戸の水を飲むことも食事をともにすることも、カーストヒンドゥーの影を踏むことさえも禁じられたのだから。黒人は少なくとも白人の召使いではありえた。インドの不可触民は、2500年にわたって、世界のどの被抑圧民民よりも過酷な状況を耐え忍んできた。その2500年の暗黒の扉をこじ開けたのがアンベードカルだった。彼によってはじめて「不可触民の心の中に人間的尊厳の念と、自尊心、不可触民制への激しい憎しみが湧き起こったのだ。」
 
アンベードカルの『ブッダとそのダンマ』を読むのはもう少しあとになるだろう。「私は何故仏教を選んだのか。それは、他の宗教には見られない三つの原理が一体となって仏教にはあるからである。即ちその三原理とは、理性(迷信や超自然を否定する知性)、慈悲、平等である。これこそ人々がより良き幸せな人生を送るために必要とするものである。」

アンベードカルの理解する仏教は、きわめて知性的であり、それは「単に宗教であるばかりでなく社会的教理」でもある。

アンベードカルは30万の不可触民とともに仏教に改宗したという。そして今インドには1億人の仏教徒がいるという。どのような仏教が1億人の心をつかんだのだろうか。アンベードカルが説いたような理知的な仏教がそのように多くの人をとらえたのだろうか。インドに「再生」した仏教がどのように人々の心をとらえていったのか、きわめて興味のあるところだ。

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不可触民と現代インド

不可触民と現代インド (光文社新書) 

著者が冒頭で語るインドでの体験――同乗する自動車のひき逃げ事件は、著者の衝撃的な「原体験」であり、それ以来、インド不可触民をはじめ最底辺民衆に関心を持つようになったという。

この本からこれまで知らなかった多くの事実を学んだ。インドのカースト制度は有名だが、では現代インドでカーストが現実にどのように働き、政治的、経済的にどのような意味をもっているのかなど、よく見えていなかった。この本では、不可触民の側からカースト制によるインドの支配と被支配の実態が明らかにされる。

ブラーミン、クシャトリア、ヴァイシャの上位三カーストで人口の15パーセント、指定カースト、その他後進階層85パーセントと言われるが、正確な数字は、1930年にイギリスが調査して以来、一度も公表されていないという。しかし実際にこの上位15パーセントが、今も政治権力、官僚制度、マスコミ、経済、議会等々、あらゆる分野で支配的地位にいるのは紛れもない事実だ。

日本の教科書的な記述でははっきりとは書かれないが、インドの不可触民を中心とした人々は近年、次のような歴史認識を持つに至ったという。つまり、ブラーミン、クシャトリヤ、ヴァイシャたちは、もともと侵略者であり、先住民を追いやり、カースト制を作り、下層民として押し込めた。下層の人々は、その事実を口にすることすら許されなかった。教科書的な記述でカースト制をアーリア人の侵入との関係の中でとらえるにしても、ここまではっきりと述べた記述には出会ったことはなかった。

山際氏は2002年にインドに取材してこの本を書いている。そのインタビューには、この国になお厳然と残るカーストの実態がかかれている。

ある不可触民出身の政府職員は言う、「私たちがどこかに転勤になると、我々のカーストがいち早く次の職場に伝えられます。新任者のカーストが何であるかによって対応の仕方が決められるからです。その人間によってではなく、所属のカーストによって扱いが決まるからなのです。」

別の不可触民出身の女性は、インドの最近の経済自由化について次のように語る、「貧困層は一層貧しく、金持ちは益々肥え太る政策以外の何ものでもありません。これは個人的成功、失敗のレベルの問題ではないのです。‥‥1990年から始まった、世界銀行、IMF主導の経済改革は、結論的にはダリットという弱者社会に大きな打撃を与えるにすぎません。社会主義的経済を資本主義的私企業形態に変えてゆくことは――銀行その他の政府系企業の私企業への移行――リザーブシステムで保証されていた職能分野の縮小を意味します。」

現代インドについて全く別の視点から語る本をと思って、『インドを知らんで明日の日本を語ったらあかんよ』竹村健一、榊原英資(PHP、2005年)のカーストについて触れた部分を読んでみた。

案の定というべきか、
「‥‥巷間でいわれているほど、カーストが問題になることはないようです。ビジネスのネックにはならないでしょう」(榊原)
「カースト制度がどうのこうのっていう話ではないわでですね。インドというと厳然としたカーストをイメージするのは、情報が古い。新しい情報が入らないと、子供のころから聞いている話で、インド観が固まってしまっているということですね。」(竹村)
「実際に、企業が採用についてカーストを云々することはまったくありません」

おそらく最先端のIT関連企業などでは、業種・職種が伝統的なジャーティにないこともあるのか、上のように言える面もあるのかも知れない。しかし、上のような言い方をしてしまうと、山際氏が報告したような深刻な現実は、まったく視野の外に置かれてしまうのだろう。自分が住む国でも、抑圧された人々の現実をあるがまま見るのはむずかしい。まして外国であればなおさらなだろう。この竹村、榊原の対談も、山際氏によるインタビューもそれぞれの立場から見た現実が語られているので、いちがいにどちらが正しいとは言えないだろう。しかし、少なくとも先の対談で語られているほどことは単純でないことは明らかだ。

ところで、カースト問題を低カースト民が自由に触れることすら許されなかった時代は、アンベードカルによって打ち破られたという。ガンディーに対立してヒンドゥーの差別と闘い,インドに仏教を復興した不可触民出身の政治家であるアンベードカル。同著者の『アンベードカルの生涯』(光文社)も併せて読むべきだろう。

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不可触民の道ーインド民衆の中へ

不可触民の道―インド民衆のなかへ (知恵の森文庫) 

同著者の『不可触民・もうひとつのインド』は、著者が1977年にインドを再訪したときの見聞をもとに、最初は1981年に三一書房から出版されている。本書は、著者が1980年から81年にインドを訪れたときの体験を元にしている。前著にもまして凄まじい不可触民差別に接して唖然としてしまう。

インドにおけるカースト的な差別と暴力が、どれほどに広く深く社会の底辺に巣食っているのかということが、読めば読むほどに分かってくる。同時に、一部の不可触民が、そのような抑圧から目覚め、組織的な抵抗を試み、大きな変化を巻き起こし始めていることも分かる。とくにアンベードカルが50万不可触民とともに仏教に改宗した都市、ナグプールの仏教徒たちの、驚くべき変化は、その地で活躍する日本僧・佐々井秀嶺の活動とともに印象深く語られている。

この本ではとくに、著者がインドの最底辺の人々と接していくうちに、上層であろうと下層であろうと、インド人のすべてに共通する、ある精神性への気づきを深めていく過程が注目される。著者はいう。インドの悲惨さは民衆の無知に深くかかわる。その考えは変わらない。しかし、そのことと、人々の神への傾倒、深い宗教性、「神信心」とが深く密着し、それが人々の無自覚な状態を支えていると、今までは考えていたという。しかし、著者の考え方は次第に変わっていく。インド民衆の無知と、それゆえの悲惨さ、それと彼らの深い宗教性はまた別のこと、次元のことなった問題なのではないかと。

「インド人は、特に底辺の民衆はある意味で、在るがままに生きている。無知であるとともに、先祖から受け継いできた大きく深い『智慧』をももち、それに支えれられ、辛うじて、ではあっても、それがなくては生きえない逆境を乗りこえてきている。それが人びとの、大きな遺産なのではないか‥‥」、そう著者は感じるようになったという。唯物史観的な考え方をもっていた著者にとっては、これは重大な発見だったのかもしれない。このテーマは、本書で何回か繰り返されるのだが、最終的には、著者が気づきを深めていったという、著者が理解する「インドの精神性」というものに、あまり魅力を感じなかった。この著者の「精神世界」への理解に深さが足りないからかもしれない。

それよりも、本書の最終章では、佐々井秀嶺がインドに行ってから、どのようにしてナグプールに導かれ、どのようでにその地での活動を開始したかが、本人の言葉で詳しく語られている。インドを発とうとした最後の晩に金縛りにあった状態のまま、光り輝く老人から「我は竜樹なり、南天竜宮へ行け」と語りかけられたという話は他でも読んだが、その詳しい状況や前後の経過を知ると、非常に強い印象を受ける。

インドのどん底、その地獄を知っていれば、南天竜宮はナグプールだと判断しただけで、その見知らぬ土地に単身乗り込んでいくことは、生命の危険をも覚悟しなければできることではないという。しかし佐々井師は旅立つ。そこに、本人の意志を超えた強い導きがあっただろうことを改めて感じた。あらためて『破天』を読んで見たいと思った。

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インドの不可触民

不可触民―もうひとつのインド (知恵の森文庫) 

インド思想史などを読んでいたのでは、絶対に分からない、これほどに圧倒的な差別の現実を今まで知らなかったという驚き。これほどに情報が発信され受信される世界においても、抑圧される人々が発信の手段すら満足にもたなければ、2億の人々の驚くべき現実がかんたんに遮蔽されてしまうという事実への驚き。ひとつの制度の中で甘い生活を許されてしまった人間は、他者をどんなに苦しめようと、その生活を守っていこうとするのが現実なのだということの、大規模なレベルでの確認。

今後私は、不可触民の視点を意識せずにインドの精神世界に接することはできないだろう。インドの不可触民問題は、たんにインド一国における差別問題なのではない。インドにあれほどに連綿と続いた高い精神性の伝統と、その一方でその伝統と一体となったカースト制度。人間を差別し虐げる文化的装置として、これほどに強烈で徹底的なものはない。その矛盾の深さ。

この本を読んでこれほど強く何かを訴えかけられたように感じるのは、この矛盾の深さによって、人間とは何か、人間の歴史と文化とは何かという根源への問いかけを強いられるからだ。ここに人間とその文化の一面が剥き出しにされているのだ。

「自分たちの一番厭な肉体労働、不潔な仕事の一切を、世襲的に背負わせ、土地をあたえず『農奴』としてただ同然に働かせる。女は男のセックスの慰み物として、好きなように扱う。‥‥こういう存在が一億以上もいて、人々に奉仕してくれるのなら、だれだってそういう制度は、あってくれた方がいい、と思うじゃありませんか。」

こうしてしかも、衣食住については一切責任を負わないのだから、奴隷制よりもなお悪いと、不可触民は訴える。制度として保障されさえすれば、人は誰しもこうした文化装置のうえに乗ったっま、差別から眼をそむける可能性がある。現にそのような事実が3000年も続いてきたのだから。

インドの精神性に引かれれば引かれるほど、カースト制の現実にもっともっと眼を向けていきたいと思う。

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